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坂東の大学と言われた足利学校が滅びないように尽力した歴史上の大物人物

坂東の大学と言われた足利学校が滅びないように尽力した歴史上の大物人物


足利学校とは?
足利学校の創設には諸説あり遺制説(奈良時代)、小野篁創設説(平安時代)、足利義兼創設説(鎌倉時代)などがあり、記録的には室町時代に入った永享11年(1439)に当時の関東管領上杉憲実が宋版の経典を学校に寄進し大家快元和尚(鎌倉円覚寺住職)を招いて足利学校を再興しました。享禄年間(1528~1531)の火災で多くの建物や書物が焼失し一時衰退しましたが北条氏政の庇護により再興、天文年間(1532~1555年)に最盛期を迎え学徒は3000余名となりフランシスコ・ザビエル(スペイン人:カトリックキリスト教の宣教師)によって足利学校の内容を母国に紹介し日本で一番優秀で有名な学校と評していました。その後も足利長尾家に庇護され繁栄していましたが天正18年(1590)の小田原征伐で北条家と足利長尾家が滅ぶと庇護者を失い再び衰微し書籍などを売りながら何とか命脈を保ちました。

江戸時代に入ると徳川家康によって散在した書籍の収集や新たに書籍を寄贈するなど庇護を受け新たに足利学校領として100石が与えられました。歴代領主も庇護した事で運営的には安定していましたが京都や江戸での朱子学などの学問が発展した為、足利学校の重要性が次第に薄れていき一地方学校的な存在となりました。江戸幕府が滅びると庇護者を失い足利藩が管轄する事になりましたが明治4年(1871)に廃藩置県となり明治5年(1872)に足利学校は廃校になりました。廃校後は多くの建物が破却され敷地も校庭も縮小されましたが明治36年(1903)に足利学校遺蹟図書館が建設されると書籍などが引き継がれ、保存活用、敷地も順次返還されました。足利学校は大正10年(1921)に国指定史跡に指定されています。

足利学校(日本遺産)

 

 

 

そんな足利学校が、1591年豊臣秀吉の甥・豊臣秀次の命令で、大切な書籍が、京都に運び去られたことがありました。
徳川家康は、坂東の大学と言われた足利学校が滅びることを悲しんで、この大切な書籍を足利学校へ返還させたそうです。
 
 

 

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